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美里の文化財

美里文化 

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《2010年7月》

・田中山長勝院に天井絵が完成!!

・日本共産党の笹井均町会議員が檀家総代長を勤める美里町関にある田中山長勝院に天井絵が完成しました。
 
 2009年10月から、美里町阿那志に在住の清水春海画伯(日本画)が製作していた天井絵36枚が完成し、檀家で関在住の藤野建設の藤野浩氏が工事したものです。

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《2008年2月》

義民遠藤兵内霊神祭が関の児玉神社末社で開催されました  ー2月11日ー

宝篋印塔

関観音堂内にある慰霊塔(宝篋印塔)

 この宝筐印塔(ほうきょういんとう)は、18世紀の半ば、関の名主であった兵内の供養塔です。兵内は享保10(1725)年関に生れ、家は代々名主を勤めていました。

 徳川10代将軍家治(いえはる)の時代である明和元(1764)年に、武蔵上野(こうづけ)、下野(しもつけ)、信濃40国の中仙道を中心とした1帯に傳馬騒動(でんまそうどう)という百姓一揆が起りました。

 騒動の起りは中山道を通行する人馬がふえて宝暦(ほうれき)年間(1750)になるとそれまでに決められていた傳馬を勤める人を出す助郷(すけごう)の村数では不足するようになり、このため中山道宿々の問屋では裕福な村役人層を資金元にして助郷の範囲を広げるよう幕府に運動をすすめていました。

案内板

関の観音堂入り口にある案内板

 幕府は折柄、明和2年の春、日光において東照宮家康の150回忌の法要が行われるのを理由に、中仙道日光道中筋の村々の調査を始め、街道から10里四方の村々に助郷の指名をおこない高100石につき人足6人、馬3疋(びき)、遠路の村々は金6両を負担するよう村々に命令しました。

 しかし、宝暦のはじめ頃から水害が多く収穫が減って農民達は生活に困っており、又、その頃新しい将軍に、お祝を述べに来た朝鮮人の接待費用として高100石につき、金3両1分2朱という従来に較べると非常に高い税金をやっと払ったすぐ後でしたのでいくら幕府の命令でもひどすぎるという不満の声が高まりました。

兵内の碑

斬首が3日3晩さらされたと言われる志戸川の辺


 そして本庄宿(ほんじょうじゅく)の助郷である今の秩父児玉大里多野佐渡新田の各郡の村々の農民1万8000余人が年の暮れに十条河原に集まり相談の結果、幕府に助郷を拡げることを取り止めて貰うよう一同で江戸迄押し掛けて願い出ることにきまり、数日後出発して本庄から上野、信濃方面の農民と一緒になって江戸に向って進んでゆきました。


杜の碑

埼玉県ともしび賞受賞記念改修の碑 


 この知らせをうけた幕府は非常に驚き、関東郡代(かんとうぐんだい)伊奈平左衛門に取り纏めを命令し、伊奈は、農民の願いを無条件で聞き届け、助郷を拡げることを中止しました。

 農民達は要求がとおると、日頃自分達を苦しめ、この事件の資金元となっていた村役人や高利貸しの家を方端から打ちこわしに赴き、20数軒を打ちこわして漸く治まりました。

 この騒動に参加した農民は約20万人といわれる多勢の人々でしたが、兵内はこの人達の信頼の下に先頭に立って活動しました。豊かな生活、明るい日々を送るために起ち上がった農民達でしたが、幕府がこの人々に下したのは兵内の獄門60名余(ママ)におよぶ重い刑でした。

 兵内がこの地で獄門の刑に処せられたのは明和3年2月43歳。兵内の死後2年目の明和5年にこの騒動に参加した人々の手によって今日までもまもられてきました。
 文献:『明和の大一揆』(北沢文武著 文化書房博文社)ほか


 

2月11日児玉神社末社、兵内社前の祭事と墓前祭

児玉神社末社、兵内社前と関観音堂内にある慰霊塔(宝篋印塔・ほうきょういんとう)前で祭事と墓前祭が中沢区長、原田町長・高橋教育長・中沢議会議長、関地区役員等の参列のを得て厳粛のうちにとりおこなわれました。 

くどきを歌う
くどきを歌う
くどき
 くどき踊り(身交わせ)
くどき


くどき
くどき踊り(石投げ)
 兵内くどき保存会が霊神祭では初めて、お囃子と口説きを披露しそれにあわせて、踊り3曲(くどき・石投げ・身交わせ)が奉納されました。

岡本宮司
祝詞を奏上する岡本宮司


参拝する子孫の遠藤氏
参拝する子孫の遠藤氏


森田氏・子孫の遠藤氏・中沢関区長・原田町長・中沢議長・高橋教育長
  森田氏・子孫の遠藤氏・中沢関区長・原田町長・中沢議長・高橋教育長


墓前祭
観音堂にある慰霊塔(宝篋印塔・ほうきょういんとう)での墓前祭

 旧関村の名主遠藤兵内の事績を称えた「義民関兵霊神事蹟 完」などを刊行した森田雄一氏も参列礼拝をし以下のような提案をしました。

250年祭 は2015年

 森田氏は2015年が250年祭に当たるので初準備をしていきたい。騒動関係資料整理、文書、雑誌、論文、新聞記事等

環境整備

環境整備として広報(リーフレット・由緒書等)案内板、道標等、神璽(お札)・お守り、占籖(おみくじ)

祭典日の変更 

現在2月11日に行われているが3月23日に改める。(明和3年2月13日の新暦対象日)

会名復元

義民兵内顕彰会に戻す。くどき保存会では口説きの保存が主となり本末転倒である。
衣装も浴衣でなく野良着に改めるべきである。

検討事業

義民サミットの開催。従来の経費50万円くらい。
義民太鼓の創設。

「義民関兵霊神事蹟 完」序の前文を引用します。

 明和元年(1764年)児玉郡関村(美里町大字関)の名主遠藤兵内は、多くの農民の苦境を救うため、増助郷の免除を求め、[伝馬騒動]の指導者として決起しました。

 20万人にも及ぶ農民の支援・協力を得た一揆のため、ついに江戸幕府は増助郷中止のお触れを布告しなければならなくなりました。
 これにより兵内は、この騒動の首謀者と目され、斬罪に処せられました。

 しかし、地元関村をはじめ近郷近在の関係者は、兵内の事蹟に対し敬幕の念をいだき、処刑後2年にして幕府はばかることなく宝篋印塔を造立し、今日に至るまで絶えることなく追善供養が営まれています。

 まさに兵内は、郷土美里町を代表する窮民救済の先覚者であり、検証されるべき著名人の一人といえましょう。



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